ヘリテージマネージャーの部屋


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「建築士の日」記念公演

 群馬建築士会事務局からの案内です。

前橋支部開催「建築士の日」記念講演会
 「群馬県の近世寺社建築の魅力 ―総合調査に参加して感じたこと―」
    講師:横浜国立大学 大野 敏先生


記念公演参加してきました

今回の調査は大変勉強になりました。身近にも大切な文化財があるし、他地区にも魅力のある作品が多く在りありました。できれば交流を兼ねた見学会と意見交換会等が、いつか実現できるといいなと思いました。    HM 下山


嵯峨宮の調査です。・・・(調査日 19.0919)

 大間々の国道112号線をから福岡大橋を渡り、県道小平塩原線を小平方面に進み浅原地区を抜けると「小平の里」がある。朱塗の木鳥居が県道脇にあり、鳥居から石段を登り参道を進むと石段の上に、二本の大杉に守られるように本殿覆屋が見える。 

正面5.6m、側面7.5mほどの入母屋造瓦葺の覆屋の中には、正面の柱間1.2mの一間社流造、葺きの本殿が鎮座している。基礎は自然石切石、身舎(もや)の軸部は丸柱、床と内法は地紋彫を施した長押(なげし)を設け、持送りにより四方の大床を支えている。組物は身舎を二手先出組(尾垂木付)とし、妻飾は二重虹梁大瓶束、笈方付き。柱間装置は正面を両開きの唐桟戸。大床は四方、浜床は三方、木階(きざはし)5級で繋ぎ、跳高欄に擬宝珠付きとし、脇障子には彫刻が施してある。

向拝(こうはい)の柱は125角の几帳面取とし正面には地紋彫を施している。向拝の組物は二手先とし、水引虹梁や海老虹梁には大隅流の特徴が表れている。

向拝の彫刻はまず、水引虹梁の上に目抜きの龍(一番目立つ)を置き、左右の木鼻には目に銅板を施した獅子頭、象頭を置く。手挾(たばさみ)は牡丹の籠彫りとしている。 

身舎の蟇股(かえるまた)には四季の花と鳥、脇障子は笹と鳥、正面の唐桟戸にと透彫が施してある。神社全体に装飾彫刻を施す過渡期のことで全体に施していないがそれぞれが秀作である。

嵯峨宮の創立は口伝によると嘉暦年間(13261329)、小平村の創立の頃という。主祭神は嵯峨天皇で、棟札は元禄10(1697)と寛保3(1743)2枚が、別當寺の正福寺に保管されている。本殿は明治期に現在の場所に移動し覆屋をかけ直したという。

別當寺とは管轄内にある神社を運営するために設けた寺院で明治の神仏分離により離されるまでは密接な関係があり棟札にも記載されています。寛保3年の棟札には彫工の名は残されていないが、大工棟梁として「林兵庫藤原正清」の名とその一門の大工の名が記されていた。

林兵庫は幕府作事方大棟梁を世襲した大工の家系、紀州平内家(へいのうちけ・四天王寺流)に生まれた。武州妻沼の名門林家に入り、実の父の平内大隅守応勝(へいのうちおおすみのかみまさかつ)から大隅流を名乗ったと伝わる。

国宝の歓喜院聖天堂(かんぎいんしょうでんどう)林兵庫正清が統率し、資金集めから進められた。享保20(1735)に本格着手され、奥殿は寛保元年(1741)に上棟、延享元年(1744)に完成しました。しかし、寛保2年の利根川の大洪水による影響で、中殿、拝殿は一時中断し、宝暦5(1756)に再開、宝暦10(1760)に社殿が完成しました。棟札にある寛保3年は中殿・拝殿が中断された翌年に当たります。聖天堂は彫刻技術の高さや漆の使い方等に高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物であること、またそのような建物の建築が民衆の力によって成し遂げられた事など文化的高い評価をされて、平成247月に国の「国宝」として指定されました。

これほど高い彫刻技術ですが、彫刻に関しては詳しい資料が残されておらず。石原吟八郎が彫刻棟梁として参加したと伝わる程度で、直接関与を示す資料はありません。棟札には彫工の記載はないが洪水の影響から中断し期間であることを考えると、大工は工事予定を入れていなかった期間で急遽決まった工事であることが考えられる。また、「嵯峨宮」のある小平地区は花輪地区とは山を越えた隣同士であるとともに共通の「安倍宗任伝説」も残っているほどである。彫工として地元同様の石原吟八郎が頼み込んで施工を頼んだことは十分考えられ、聖天堂の彫工が吟八であることを示唆している一例にもなっている。

群馬県はその地域から大隅流の作品は多く見られるがその本家の林兵庫正清の作品はわずか3例あるのみで、そのうちの1例は「世良田八坂神社」であり、棟札の三年前には他界している。生前の作品は桐生の青蓮寺の須弥壇と嵯峨宮だけである。まさに日本の建築史の一ページを飾るような貴重な作品である。